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7月11日、イタリアを代表するデザイナー、ジョルジオ・アルマーニが87歳の誕生日を迎えた。ジャケットを再構築し、グレージュを生み出し、メンズ、ウィメンズともにスーツに革命をもたらした“モード界の帝王”。生涯現役を貫く彼の功績を讃えるべく、ストイックなデザイン哲学が宿る名言とセレブが着用しレッドカーペットを沸かせた美しいドレスの数々を見ていこう。
1960年代のジョルジオ・アルマーニ。 Photo: Leonardo Cendamo/Getty Images
ジョルジオ・アルマーニが幼少期を過ごしたのは、ムッソリーニの独裁政権が勢力をふるい、第二次世界大戦へと突入していった時代だ。父親はファシスト連盟で事務として働き、母親は社会活動に積極的な主婦だった。決して裕福ではなかったものの、市民劇場のかつら職人だった祖父に連れられて劇場をよく訪れたり、日曜日に映画館に行ってイメージを培ったりと、経験豊かな少年時代を過ごした。母親は軍服やパラシュートの布地を開襟シャツや半ズボンにリメイクしてジョルジオたち兄弟に着せたという。
裕福な家の子の服にも見劣りしない出来栄えで、ジョルジオは「豊かな家庭ではなかったからこそ、お金をかけずにきちんとした服装を子どもたちにさせる才能を母は持っていたんだ」と回想している。思春期になっても着る服は兄のお古ばかりだったが、天性の美的感覚はすでにそなわっていたようで、母親が飾るテーブルセッティングに納得がいかずに口を出したり、高校の同級生に服装のアドバイスをしたりしていたという。
クローニンの小説『城砦』に感銘を受け、医学を志して国立ミラノ大学の医学部に入学したものの、自分は医者に向いていないと3年生で退学。兵役に就きながら職探しをして、幼なじみからの紹介で働き始めたのがミラノの大手百貨店リナシェンテだ。広報部の写真家アシスタントとしてキャリアをスタートさせ、生来の観察眼の鋭さを武器にショーウィンドーのデコレーター、紳士服のバイヤーとステップアップ。バイヤー時代には、英国スタイルのアイテムをミラノでも買えるよう、ツイード地のジャケットとコーディネートする黄色のベストを輸入して大成功させた。
アルマーニの才能が徐々に業界に知られるようになったのは、ニノ・セルッティが立ち上げた紳士服ブランド「ヒットマン」に携わるようになってからだ。柔らかな生地やクールな色合いを選ぶようになり、ボタン位置をわざとずらし、肩パッドを薄めにするなどフォーマルで堅苦しかったメンズジャケットをソフトで着心地の良い若々しいイメージへと変えた。
イタリアには当時、「スティリスタ(ファッションデザイナー)」という言葉は存在せず、この職業は二ノ・セルッティがアルマーニのことを「私のスティリスタ」と表現したことで使われるようになったという。広告キャンペーンにおいても、アルマーニは新しいことに挑戦した。
オリヴィエ―ロ・トスカーニとともに制作した広告は、長髪の男性のアップに「ヒットマン・バイ・アルマーニ」のキャッチコピーだけ。風になびく髪に隠れて顔も見えなければ服も写っていない。今でこそこうしたコンセプチュアルな広告も一般的になったが、当時は「肝心の服が写ってないじゃないか」と批判された。アルマーニがおこなうことは何から何まで革新的だったのだ。